テレビに、ある俳優が映る。顔はすぐわかる。出ていた作品も二つ三つ言える。声だって頭の中で再生できる。なのに、名前だけが出てこない。

あるいは仕事中。何度も会っている取引先の担当者が、こちらに歩いてくる。誰なのかも、この前なにを話したかも、ちゃんと覚えている。それなのに、あいさつする直前のほんの一瞬、名前だけがスッと消える。

こういう「名前が出てこない」に心当たりがあるなら、まず知っておいてほしいことがあります。それは、その人を忘れたわけではない、ということ。相手のことはぜんぶそろっているのに、名前にだけ手が届かない。この二つは、まるで別物なんです。ここを取り違えると、「自分の記憶力、落ちてきたのかな」と、つい不安になる。でも、たいていはそうではありません。

「忘れた」んじゃない。「引き出せない」だけ

記憶が消えてしまうのと、ちゃんと入っているのに取り出せないのとでは、話がまるで違います。後者は、いわゆる「のどまで出かかっているのに、出てこない」状態。名前を知っている感覚はある。最初の一文字や、語感のリズムまでわかることもある。それでも、あと一歩で出てこない。

じつは、この「断片だけ漏れてくる」感じこそ、なによりの証拠なんです。そもそも頭に入っていなければ、のどまで出かかることすらない。つまり名前は、ちゃんとしまってある。うまくいっていないのは、そこへ戻る道のほう。そして道なら、消えた記憶よりずっと直しやすい。

脳は、名前をいちばん最後に取り出す

詰まるのがいつも名前で、ほかの情報ではないのには、ちゃんとわけがあります。人の見分けかたを長年調べてきた研究が、はっきりした答えを出しているんです。

見慣れた顔を見たとき、脳はいつも決まった順番で進みます。最初に「あ、知ってる人だ」という感覚。次に、その人について知っていること——職業、どこで会ったか、どんな役を演じていたか。そしていちばん最後に、ようやく名前。名前は、ほかの情報とは別の場所に、ぽつんと置かれています。たどり着けるのは、すべての情報を通り抜けたあとだけ。つながっているのも、太い束ではなく、細い糸が一本きり。だから、まっさきに切れます。

これをうまく示した、こんな研究があります。「人の見分けで詰まった瞬間」を日記につけてもらうと、〈その人のことはぜんぶわかるのに、名前だけ出てこない〉という記録は、山ほど集まりました。ところが、その逆——〈名前は出るのに、その人のことは何も思い出せない〉という記録は、ほとんど一件もなかったそうです。名前はいつも、鎖のいちばん端っこにある、いちばんもろい輪なんです。

名前が、いちばんもろい理由

名前は、その人にまつわる情報のなかで、唯一それだけでは何の意味も持ちません。職業も、出身地も、出会ったときの話も、どこかで自分の知っている何かにつながって、ぶ厚い記憶の網に収まっていく。でも名前は、そのどれともつながらない。たまたまその響きだった、というだけの、ただのラベルだからです。

たとえば、近所の「パン屋さん」のことはすぐ覚えられるのに、その店主の名字となると、なかなか出てこない。職業のほうには、パンや店やにおいといった手がかりが山ほどぶら下がっているのに、名字のほうには、手がかりがひとつもない。(同じ言葉でも「職業」として示されると覚えやすく、「名字」として示されると覚えにくい——海外の研究でも、そんな形で知られています。)支えがほとんどないぶん、名前はその人とのつながりのなかでいちばん心もとなくて、ほんの少し思い出しにくくなっただけで、まっさきにこぼれ落ちるんです。

親しさは、関係ない

いちばん意外なのは、ここかもしれません。何年も一緒に働いている同僚や、古い友人、ときには家族の名前で詰まる。その一方で、会ったこともない俳優の名前はスラスラ出てくる。親しさは、名前を守ってはくれないんです。

引っかかっているのは、その人をどれだけ知っているかでも、どれだけ大切に思っているかでもない。意味を持たないラベルにつながった、あの細い糸一本——ただ、それだけ。実際、さっきの日記研究でも、いちばん詰まったのは知らない人ではなく、本人がよく知っている相手の名前でした。親しさは、顔とその人の物語を一瞬で差し出してくれる。でも、名前のためには、ほとんど何もしてくれないのです。

歳のせい、なんだろうか

少しはあります。そして正直なところ、たいていはこの不安こそが、こうして検索する理由なのだと思います。たしかに、名前を取り出すスピードは四十代あたりから少しずつ落ちていくし、固有名詞は最初に「引っかかる」言葉になりがちです。

でも、それ自体は、歳を重ねた記憶のごくふつうの姿であって、危険信号ではありません。名前への細い糸は、歳とともに、そして使わないことで弱っていく。もともといちばん細いから、まっさきに弱るだけのことです。気をつけたほうがいいのは、もっと広い変化のほう。最近の会話についていけない、通い慣れた道で迷う、毎日使う物の名前が出てこない。そういうことが重なるなら話は別ですが、名前がのどまで出かかるだけなら、それには当たりません。

では、どうすればいいか

これは「引き出せない」問題であって、記憶が壊れているわけではない。だから効くのは、力いっぱい思い出そうとすることではなく、名前への道を開けたままにしておくことです。

  • 無理に思い出そうとしない。 力むと、かえって出口がふさがります。いったんあきらめると、数分後にふっと、向こうから名前がやってくることもよくあります。
  • 「手がかり」から攻める。 名前は、近くの手がかりから入ったほうがたどり着きやすい。どこで会ったか、何をしている人か、似た響きの言葉、最初の一文字。入り口さえ見つかれば、名前はあとからついてきます。
  • 忘れる前に、もう一度。 名前は、使わないと薄れます。いちばん確実なのは、薄れかけた頃にもう一度思い出すこと。少し経ってから、翌日、数日後——と間隔を空けて思い出すたびに、あの細い糸は太くなり、次に詰まるまでの間隔が延びていく。これが「間隔反復」で、本格的な語学アプリが使っているのと同じ仕組みです。

ただ、やっかいなのは、大切な人ひとりひとりについて、このタイミングを頭の中で管理するなんて、とても無理だということ。これはまさに、私自身が何度もはまった落とし穴でした。だから私は、その穴を埋めるための小さなアプリを作りました。

NameMemoryに登録した人の詳細画面。名前を思い出すための手がかりをメモとして残せる

出てこない名前に、そっと「手がかり」を

NameMemory は、脳トレでもゲームでもありません。「記憶力を治す」アプリでもない。だって、あなたの記憶はそもそも壊れていないからです。これは、名前が出てこなかった——あの瞬間のための、小さな道具。顔と名前、それに手がかり(どこで会ったか、何をしている人か)をひとつふたつ残しておくと、名前が薄れてしまう前の絶妙なタイミングで、そっと思い出させてくれます。データはぜんぶ端末の中だけ。アカウント登録もいらないし、あなたの記録が外に出ることはありません。

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目指したのは、忘れるのをなくすことじゃありません。名前はそこにあるのに出てこない、あの小さな、ちょっとしょんぼりする瞬間を、ひとつでも減らすこと。名前に手がかりをひとつ持たせて、ときどき思い出してあげる。それだけで、次にその顔を見たとき——同僚でも、旧友でも、画面のなかの俳優でも——名前はちゃんと、顔といっしょにそこにいてくれます。

あの「出てこない」を、今日からひとつずつ。